青春シンコペーション


第4章 コンクールに姫乱入?(2)


井倉は動揺していた。
「どうしてここがわかったんだ? 親父やお袋は?」
一番気になっていたことをまず質問した。
「探偵の飴井さんって人に聞いたのよ。親父達なら元気だから心配ないよ。それより、眉村先生はどこ? サインしてもらおうと思って、駅前の本屋さんで急いでこれ買って来たんだから……」
澄子はこれ見よがしに美樹の著作の本を兄の鼻面に突き出した。

「何だよ、その言い草は……。おれのことはどうでもいい訳?」
「だって、元気そうじゃん。それにずるいよ。優介ばっかり眉村先生のお宅に厄介になってるなんてさ」
彼女は不満そうに言い募った。
「おれにだって事情があったんだ。おまえにはわからないだろうけど……」
井倉は自分がここへ来た経緯を思い出して涙ぐんだ。が、澄子は無視して勝手にリビングのソファーにどんっと座って不平を言った。
「そんなのぜんぜんわかんない」
井倉が呆れていると、ハンスが冷たいジュースを持ってやって来た。

「はい、どうぞ。オレンジジュースは好きかな?」
「うん。ありがと。えっと、あなた、眉村先生の何? 秘書? それともアシスタントさん?」
グラスを受け取ると半分ほどぐいと飲んでから澄子が訊いた。
「いいえ、違いますよ。僕は……」
ハンスがそう言い掛けたのを遮って井倉が言った。
「澄子! いきなり失礼だろ」
「え? 何で? 偉い作家の先生ならイケメンの秘書くらいいるんじゃないの?」
彼女はあっけらかんと言うと、ソファーに置いてあったパペットを膝に抱き、撫で回しながらうれしそうに笑った。

「この人はハンス・ディック・バウアー先生。僕がピアノを教えていただいている先生だよ」
「へえ? そうだったの。ああ、バカな兄がお世話になってます」
一瞬だけペコリと頭を下げ、パペットを脇に置いて、残りのジュースを飲み干した。
「あーあ。こんなステキな先生なら、わたしもピアノ習っておくんだったな。優介にはもったいないよ、うん」
そう言うとまたぬいぐるみを撫でた。

「澄子……。おまえ、いったい何しに来たんだよ?」
「あれ? 言わなかったっけ? 眉村先生にサインもらおうと思ってさ」
少女はにこにこと笑いながら持って来た本を振った。
「わかったよ。サインはあとで頼んでやるから、おまえはもう帰れ!」
井倉が妹の腕を引っ張って立たせようとした。
「何でよ」
妹が反論する。

「親父達は元気なんだろ? なら、もう用はないから……」
「何よ、それ。せっかく兄貴のこと心配して、はるばる来てやった可愛い妹に対して言う台詞?」
「何が可愛い妹だよ。今はレッスンの時間なんだ。おまえがいると邪魔なんだよ」
彼は無理に妹を玄関に追いやろうとした。
「まあまあ、井倉君、いいじゃないですか。美樹ちゃん達ももうすぐ帰って来ると思いますよ」
ハンスが止めた。
「でも、先生」
井倉は気が気ではなかった。レッスンの時間を押していることも、澄子の無遠慮な発言に対してもだ。しかし、ハンスはおっとりと言った。

「わざわざ訪ねて来てくれた妹さんを帰すなんて可哀想ですよ。ねえ、君、喉が渇いてるんでしょう? もう一杯ジュース飲みませんか?」
「ありがと。外国の人ってやっぱ親切なんだ。ねえ、彼女いないなら、わたし付き合ってあげてもいいよ」
「澄子……!」
井倉は何と言って取り繕えばいいのかわからずに絶句した。
「あは。こんな可愛いお嬢さんからそう言ってもらえると、とってもうれしいのですが、僕にはもう心に決めた人がいるのです。残念ながら」
ハンスがすまなそうに言った。
「なーんだ。残念。やっぱいい男は世間の女が放っとく訳ないか」

「ふふ。澄子ちゃんって可愛い人ですね」
ハンスが言った。
「本当にすみません。親父がいいように甘やかして育てたもんだからまったく口の利き方知らなくて……」
井倉は何度も頭を下げて言い訳した。

その時、美樹達が買い物から帰って来た。
「ただいま。あら、お客さん?」
リビングを覗いた美樹が訊いた。
「あ、眉村先生! わたし、ずっとファンだったんです。これにサインしてください」
いきなり本を突き出されて美樹が戸惑っていると、ハンスが来て説明した。
「この子は澄子ちゃん。井倉君の妹さんなんです」
「そうだったの。サインならあとでしてあげるからどうぞ、ゆっくりしていらしてね」
「わあ。ありがとうございます」

「ほんとに、すみません。突然……」
井倉が詫びた。
「あら、いいのよ。それじゃあ、お家の方は少しは落ち着いたのかしら?」
「はい。ぜんぜん大丈夫です。飴井さんって人のおかげで何とか再建の目処がついたって父親が言ってましたから……」
「それはよかった。ちょっと待ってね。今、荷物を置いて来ちゃうから……」
美樹がそれらを持って行こうとすると、あとから来た黒木が言った。
「ああ、私が持ちましょう。いつもの棚に入れておけばいいんですよね?」
「ええ。それじゃ、お願いします」
美樹が軽く頭を下げる。

「へえ。すごーい。あのおじさんって執事? それともお手伝いさんかな?」
妹の言葉に井倉は顔色を失くした。
「あの人は黒木教授。ハンス先生と同じく、僕のピアノの先生だよ」
「教授? へえ、そんじゃあ偉いんだ。驚いた。どう見ても普通のっていうか、冴えないただのおっちゃんじゃん」
黒木はちらと振り返って二人を見たが、そのまま黙ってキッチンへと入って行った。その後ろ姿を見送りながら井倉は顔面を引き攣らせて言った。

「澄子、頼むから、おまえはもう何も言わないでくれ」
「何で?」
「おまえが喋る度、おれの心臓が止まりそうになるからだよ」
「相変わらずお兄ちゃんの心臓ってチキンハートなんだね」
澄子は何を言われても堂々としていた。反対に、井倉はどんどん委縮して行く。

「井倉君、今日はレッスンはお休みにして、妹さんといろいろ話したらいいですよ」
ハンスが言った。
「でも……」
とても休んでなどいられない。まだ、全然思ったように弾けていないのだ。井倉はすがるような目でハンスを見つめた。が、ハンスはその肩を軽く叩いて言った。
「大丈夫。さっきの情熱を忘れなければ、きっとうまく弾けます」
「さっきの……」

――僕は彩香さんが好きだ

ふっと脳裏に過る熱い感情。その風を思い出して頬が火照った。

「そうだ。お茶の時、みんなでいただこうと思って、おいしいタルトを買って来たのよ。澄子ちゃんもどう?」
美樹が言うと、少女はぱっと顔を輝かせた。
「わあ! ほんとですか? わたし、ケーキ大好き!」
彼女が大喜びで美樹の手を引っ張るのを止めながら井倉が言った。
「おまえ、少しは遠慮ってものがあるだろ?」
「だって、このところずっとケーキなんて食べられなかったんだから……。お兄ちゃんは知らないでしょうけど、こっちはこっちで大変だったの!」
「それはおれの方だって……」
井倉はそう言い掛けたものの、それ以上のことは口に出さなかった。一瞬だけ閃いた妹の瞳に映る辛い過去を見たからだ。

(親父の会社が倒産して、澄子は澄子なりに苦労したのかもしれない。何しろ、まだ中学生なんだもんな)
兄妹だからこそわかる微妙な表情の変化を捉え、一見明るく振る舞っている妹のことが不憫に思えた。


「それじゃあ、もうすぐお父さん達もこっちへ来られそうなのね?」
リビングでお代わりの紅茶を注いでやりながら美樹が訊いた。
「はい。来月の半ばくらいにはってお父さんが言ってました」
澄子はフォークに刺したフルーツを口に運びながら答えた。
「それはよかった」
と、ハンスが言った。
「何しろとんでもなく悪い奴に引っ掛かっちゃったんだよね。井倉君のお父さんはちっとも悪くないのに……」
ハンスは黒木に簡単にこれまでの事情を説明した。

「そうか。だが、決着がついてよかったな。これで、あとはおまえが大学に戻れるといいのだが……」
黒木の言葉に澄子が驚いて兄の顔を見た。
「え? お兄ちゃん、音大やめちゃったの? あんなに喜んでたのに……。お父さんの反対を押し切って家を飛び出してまで……」
澄子の瞳にはじめて不安が過ぎった。
「アパートに親父の会社の債権者ってのが来て、脅されたんだ。それに、バイト代や授業料まで全部取られた」
「ひどい! そんなこと聞いてないよ! どうして黙ってたの? お兄ちゃん」
「言おうとしたさ。でも、訪ねて言った時にはもう、おまえ達は夜逃げしたあとだったから……どうにもならなかったんだ」

「かわいそう。お兄ちゃんも苦労したんだね」
妹がしんみりと言う。
「けど、ハンス先生に拾ってもらったから……。美樹さんにも親切にしてもらって、それで……」
しかし、死のうとするほど追いつめられていたのだということを、妹には黙っていた。膝の上で握った拳が微かに震える。黒木はそのことを知っているのだろうか。沈みかけた夕陽に照らされて、ピアノの恩師は静かに紅茶のカップを口にした。

「でも、そのおかげで売れっ子作家の眉村先生のお宅に居候することができたんだから、ラッキーじゃん」
明るい口調で澄子が言った。
「ラッキーか……。そうだね、きっと」
井倉も頷く。
「おかげで、わたしも眉村先生のサインもらえたし! こんなことなら、倒産するのも悪くないかもよ」
「冗談じゃないよ。これ以上あってたまるかって、親父達にもよく言っといてくれ」
井倉が真面目に反論した。

「わかった。そんじゃ、わたし、そろそろ行くね」
突然澄子が立ち上がった。
「行くってどこへ? 親父達はまだこっち来てないんだろ?」
井倉が慌てて問いただす。
「うん、いいの。わたし、今夜は友達の家に停めてもらう約束になってるから……」
「あら、残念ね。今夜はここに泊まってもらおうとおもったのに……」
美樹も言った。
「わあ、うれしい! 今度はぜひそうさせてください」
澄子はそう言ってペコリと頭を下げるとさっさと玄関へ向かった。

「ほんと、残念。でも、今日は明菜と約束あるから……。ふふ。眉村先生のサイン見せたら、明菜きっとうらやましがるだろな」
そう言うと彼女は美樹にもらったサインを大事そうに胸に押し当てて微笑した。
「そんじゃね、優介。コンクールがんばってね」
「ああ。おまえも気をつけて行けよ」
そう言って見送る井倉の表情は少し寂しそうだった。


「お騒がせしてすみませんでした」
妹が行ってしまうと、井倉は皆に頭を下げた。
「いえ、構いませんよ」
ハンスがにこりとして言った。
「ほんとに、気にしないでね」
美樹も言う。

「それにしても元気な妹さんだな」
黒木の言葉に井倉がまた恐縮する。と、その肩を掴んで教授が言った。
「はは。いやみじゃないよ。ちょっとね、娘のことを思い出したんだ。息子の方は神経質で静かな性格だったが、娘の方は澄子ちゃんのように元気で明るい性格でね。音楽の方はてんで駄目だったが、スポーツのできる子で、いつもリレーの選手に選ばれていた。何だか急に顔を見たくなったな」
黒木はふっと窓の向こうの景色を見つめた。それから、ハンス達の方を振り返って言った。
「申し訳ありませんが、今夜だけ、ちょっと家に帰って来ても構いませんかね?」
「ええ。僕は構いませんよ」
ハンスの言葉に二人も頷いた。
「それじゃあ、ちょっと失礼致します」
そうして、黒木も家を出て行った。

それから夕飯までの間、井倉はピアノの練習をした。ハンスはそれを黙って聞いていた。自由に弾いて、どこを直せばいいのかを自分で気づくまで十分練習するようにと……。

そして、夕飯のあと、再び練習を始めた井倉に、ハンスは幾つか指摘した。
「そこ、少しだけピッチが遅いです。コンクールではそういうところも減点の対象になりますから注意してください」
「はい」
「どうしていつもそこで遅れるかわかりますか?」
「いえ……」
「そこの指使い、不自然じゃありませんか?」
「え? でも、楽譜にそう書いてあったので……もっと練習すればきっと……」

「じゃあ、もう一度弾いてみて」
井倉が弾き始める。とすぐにハンスがその手を止めて言った。
「ほら、ここ。その指使いのせいで遅れるんです。ここはもっと自由にしてもいいんですよ。ほら、こう弾いた方がずっと自然でしょう」
ハンスは実際に自分で弾いて見せた。
「はい。そうですね。わかりました」
バラード……。そのドラマティックな曲想に浮かぶ場面を想像し、井倉はその晩、純粋に音楽を心で感じ、楽しむことができたと思った。

翌日には黒木も帰って来た。それから2週間ほどはひたすら練習の日々が続いた。朝から晩まで一日中ピアノを弾き続ける生活。しかし、ちっとも苦にはならなかった。むしろ幸せなのだと、自分はこんなにもピアノが好きだったのだと感じた。


そして、コンクールまであと三日。何とか曲も形になって来た。黒木は相変わらず細部に渡って注意をし、徹底的に欠点を直すようにと指導した。一方、ハンスはテクニックだけでなく、表現にも拘った。

「うーん。もう一つ、何かが足りない気がします」
演奏が終わるとハンスは首を傾げて鍵盤を見つめた。井倉は、いったい何を要求されているのかわからずに途方に暮れた。窓際に飾られた笹の葉が微かに揺れる。そこに吊るされた短冊にはみんなの願いが書かれていた。7月の始めに吊るしたのだ。
みんなの願い……。

……井倉がコンクールで優勝できますように!

どの短冊にもそう書かれていた。涙が出るほどうれしかった。が、井倉自身は、本当は他の願いごとを書きたかった。

……彩香さんにもう一度会えますように! そして、できれば……

そう心で考えた。が、すぐに周囲を見回して赤面した。
(僕って欲張りだな。彩香さんとうまく行ったらいいなんて……そんなこと有り得ないのに……。わかってるんだ、僕だって……。それでも夢を見ていたい。せめて年に一度の七夕くらい……)
だが、井倉は自分の短冊に皆と同じことを書いた。
コンクールで優勝できますように……と。

ピアノコンクールで優勝する。それは彼の夢へと直結した。
確かに、ピアニストになることは井倉にとって幼い頃からの夢だった。しかし、今の彼にとっては、あまりにも遠い幻に思えた。しかも、それを本当に自分自身の意思によって望んでいるのかと……。
自問自答を繰り返しているうちに、それは違うのではないかという考えが頭を過った。

(本当はコンクールなんてどうでもいいんじゃないだろうか。僕にとって本当に大切なのは……彩香さん。君だけなんだ)
しかし、その感情は応援してくれているハンスや黒木、美樹に対しての裏切り行為に他ならない。
(あの人達を裏切って、恩を仇で返すなんてこと、僕にはとてもできない。でも、僕にはコンクールで優勝するような実力はない。あの彩香さんに勝てる実力なんてとてもないんです……! ごめんなさい、先生)

――君はナイトにだってなれるのです。騎士となって彩香さんを迎えに……

風鈴がちりりと鳴った。ソファーに置かれたパペットが、じっとこちらを見つめている。あの時、胸の中を吹き抜けた風が、再び、井倉の心に明かりを灯した。

――君は弾ける

それはハンスの声のようでもあり、他の誰かの声のようでもあった。はっきりしているのは、それが井倉にとって、とても大切な人の声だということ。そして、あたたかなやさしさで、包み込んでくれたという記憶。それだけで十分だった。

(どうしよう。胸が熱い)
笹の葉に飾られた織姫。
(もし、もう一度彼女に会えたら……。たった一度だけでいいんだ。会いたい! 彩香ちゃんに……)
エアコンの風に靡いて短冊が揺れた。
涙が出そうになって、井倉は慌ててハンカチで汗を吹く振りをした。

「ああ、今のは大分よかったですよ」
ハンスが微笑した。
(いけない。まだレッスン中……)
井倉は軽く頭を振って彩香の幻を追い出した。

「あ! そうだ!」
いきなりハンスが手を打った。
「美樹ちゃーん、今日は何日ですか?」
彼は急いで階段の方へ駆けて行って訊いた。
「七日よ」
二階から美樹が答える。
「それって今日なんですよね? ほら、前に美樹ちゃん言ってたでしょ? お祭りがあるって……」
「ああ、平塚の七夕のことね」
美樹も降りて来て言った。

「そう。それ。今日、みんなで見に行きましょうよ」
ハンスがうれしそうに言った。
「え? でも……」
美樹が困ったように井倉を見た。
「あの、僕なら構いませんよ。留守番していますから……」
井倉の言葉にハンスが首を横に振った。
「何を言ってるんですか。井倉君も一緒です」
「でも、僕はピアノが……」
恐る恐る振り返って黒木を見た。が、黒木は黙ってソファーに座り、雑誌を読んでいる。

「駄目ですよ。七夕は一年に一度しかないんです。今日行かないとまた来年まで見られません」
「でも……」
井倉は困って下を向く。
「すごくきれいなんですって……。僕、どうしても見たいです。だって、ドイツには星のお祭りなんてなかったです。だから……」
ハンスが説得する。
「僕は練習していますから、先生達だけでも楽しんで来てください。僕は来年でも構いませんので……」

「来年はまた来年で、今じゃありません。僕は、今みんなと行くのがいいんです」
もはや駄々っ子のように井倉の腕を掴んで放さない。
「よし。行こう!」
いきなり黒木が立ち上がって叫んだ。
「でも、先生……」
井倉が困惑したように教授を見つめる。
「なに、今日一日くらい祭りに行ったところで結果が左右することはないだろう。ハンス先生だってこんなに行きたがってるんだ。ご一緒しなければ罰が当たるぞ」
そう言う黒木に押し切られて四人は平塚に出掛けることにした。

そして、どうせ行くなら浴衣を着ようということになり、急遽デパートで浴衣を購入し、着替えを済ますとその足でJRに乗った。
美樹は桜、黒木が格子、ハンスが笹で、井倉は四角形の隅を繋いだ連続模様という比較的オーソドックスな柄を選んだ。ハンスは履きなれない下駄が歩きづらそうだったが、そのうち慣れて、歩く度にからからと鳴る音を面白がった。


駅に着くともう、周囲は人でごった返していたが、見る物すべてが目新しいハンスは大喜びした。
「すごい! きれいです! 僕、こんなのはじめて見ました。ほんとにきれい……」
一つ一つの飾りにうっとりしてなかなか動かないハンスにみんな手を焼いたが、露天で売られている綿菓子や金魚掬いやヨーヨー釣りなど、ハンスに付き合って黒木や井倉も童心に返って楽しんだ。

(やっぱり来てよかった)
きらびやかな祭りの雰囲気に酔って、井倉は気分が高揚していた。
「美樹ちゃん、次はあれもやりたいです」
「ほんとに子どもみたいね。もう持ち切れないわよ」
二人も楽しそうに笑っている。
「その辺で写真を撮りましょう」
黒木がカメラを構えて二人を追った。
井倉も、ハンスが買った風船や綿菓子やぬいぐるみを預かっていた。その大きなぬいぐるみを持ちかえて振り向くとハンス達の姿がない。人混みに紛れて逸れてしまったのか。井倉は焦って彼らを追った。

「どこに行っちゃったんだろ?」
井倉がきょろきょろと辺りを見回していると、また別の金魚掬いの人だかりに混じって金髪の頭が見えた。思わずハンスかと思ってそちらへ駆けて行くと、その人物が立ち上がって隣の女性に話しかけた。ハンスよりも背が高いその男性がこちらを見た。それは見覚えのある顔だった。

(あれは、フリードリッヒ バウメン……)
彼もまた浴衣を着て、金魚の袋を持っていた。その丈は少し短かったが、美形の外人が浴衣を着ているのでかなり目立っていた。そして、隣にいるのは日本人。美しい蝶の模様の浴衣を着た彼女がフリードリッヒの肩に軽くもたれ、笑いながらこちらを見た。
「彩香さん……!」